ひねくれ者のくだらない話

特に深い意味はない。

自分語り⑶

 本当に些細なことで私は私を見放す。

 守らなければいけない自分の心も体もほんの少しの幼い絶望に苛まれ見放した。

 

 幼稚園のピアノ発表会で、同じクラスの可愛い女の子が曲の途中で突然弾けなくなり、泣いてしまった。すぐに先生やその子の母親が駆けつけて慰めていた。周りの保護者も暖かい目で見ていた。

 この女の子は沢山の人に愛されているんだ、と、ひと目でわかった。それはまるでドラマのワンシーンみたいに美しく、ただただ羨望の眼差しで見つめることしかできなかった。私もこんなふうに物語の主人公になって愛されたくなった。

 そして自分の発表の出番がきた。

 私は、あろうことかデュエット曲の途中で鍵盤を叩く指を止めた。一緒に弾いていた女の子は驚いてポカンとしていた。わざとなのでなかなか涙が出なくて困った。私はピアノの前で固まってしまったフリをした。

 数十秒経ち、周りがザワザワし始めた。さっき可愛い女の子が泣いてしまった時とは打って変わり、明らかに違う雰囲気が流れていた。不穏で呆れた雰囲気だ。母はまだ駆けつけてこない。どこで立って見ているか分からない母を心の中で何度も呼んだ。

 代わりに先生が慌ててやってきて、「具合が悪い?」と声をかけた。私は頷き、具合が悪いことにした。 私があの女の子とは違って不細工で愛される対象にはならない事実を当たり前のように突きつけられると、堰を切ったように涙が出てきた。先生に手を引かれ椅子から転がり落ちるように立ち上がり、次の次の次の演奏まで泣き止まなかった。涙が乾いても引き際に困ってしまい、「私は可愛くないんだ」と脳へ植え付けるように唱え続けた。悲しくなり、再び涙を絞り出すことができた。

 親達は家に帰って愛する我が子の演奏をおさめたビデオを再生し、美しい旋律に邪魔をするわざとらしいノイズに心底うんざりして動画を削除することになるだろう。

 自分にとっても、ピアノクラブにとっても、一生に一度の発表会をぶち壊した。私の愛されたいという些細な願望のせいで。

 母はとても呆れていた。一緒にデュエットした女の子の家を訪ねて、お詫びまでしたそうだ。

 「だからお母さんの言う通り、家を出る前に練習すれば良かったのに。」

10年以上経っても未だに言われる。母には本当のことなど言えない。せめて母に抱きしめて貰っていれば、呪うように泣き続けなかっただろう。

 ピアノを弾くのは好きでも嫌いでもなかった。ただ、発表会を機に2度と習わなかった。親に愛されないのなら全て意味の無いことに思えた。

 

 

 大阪から実家に帰ってきて近所のモスバーガーでアルバイトを始めた。高校2年生の夏だった。

 薄暗く狭苦しい事務所の隅に更衣室がある。更衣室といっても名ばかりで、人1人立てるくらいの小上がりに埃っぽいカーテン1枚でぐるりと仕切ってあるだけだった。床はグレーのカーペットで、なんだかここで働いてきた従業員達の足汗が染み付いたような、酸っぱいこもった匂いがした。私はつま先立ちで素早く着替えながら、小洒落た意識の高いハンバーガーショップの裏側なんて所詮こんなものか、と思った。

 更衣室の白い壁には無数の穴があった。画鋲穴くらいに小さな穴だ。私はそれらをひとつひとつ爪で押し潰した。

 テレビか何かの影響で、出先のトイレや更衣室を物凄く警戒していた。壁にちいさな穴があるだけで睨みつけて指でじっくりと潰しながら、盗撮をする小太りの汚い中年男がモニターの向こうで悔しそうにうろたえるのを想像した。ざまあみろ。

 私は男が大嫌いになっていた。特に父親くらいの年齢の男だ。

 

 おしっこを飲ませただけでは私の鬱憤は晴れなかった。あの時、生まれて初めて家族以外の男に裸を見せた。ネットで出会った好きでもない男に。緊張で吐きそうになりサラダさえも口に入らなかった。

 しかし、本当にこれでいいのかと自問自答したのは最初だけで、だんだんどうでも良くなっていった。私の初体験に価値なんて無い、いっそ犯罪に巻き込まれて死んでしまっても構わないとさえ思っていたからだ。私は同級生の誰よりも先に大人の世界に踏み入ったのだ。高校を中退した劣等感から誰をも見下すために、私は早く大人になりたくてしょうが無かった。

 男は夜中3時まで私の体をまさぐり続けた。やがて興味のない競馬の話をし始め、相槌だけで聞いているといつの間にか醜くいびきをたてていた。

 完全に寝入ったのを確認してから男をじっくりと観察してみた。そこには力尽きた普通のおじさんが横たわっていた。気持ち悪かった。駅で迎えに来て一目見たときも、禿げていて気持ち悪いおじさんだと感じたのに何故か引き返せなかった。どんなに不快でも、私が大人になる代償だと思えば我慢できた。

 

 次の日から私はまるで生まれ変わったような気分だった。こんな私でも誰かから夢中に体を求めてもらえるんだ。そしてお小遣いも稼げる。それに気がついた私は、体を売ることが賢いと確信した。

 出会い系にハマった。特にアプリだ。その頃は身分証を提出しなくても、「18歳」と入力するだけで簡単に利用できた。既に高校1年生の頃からTwitterで被写体モデルを始めてネットで知り合った人と頻繁に会っていたので、抵抗はなかった。なんなら、ホテルでSM趣味の拘束具を身につけて撮影をして、中年男に玩具で好き勝手された事もあった。

 求められると、自分が肯定された。私がこの世に存在して良いのだと唯一実感できた。しかし、この幸福感には時間制限がある。帰りの電車では必ず激しい無力感に襲われた。

 私は援交相手を探しながらも、本物の恋を求めていた。マッチする年齢は18歳から無限に。大学生からメッセージが来る度に舞い上がった。誰もが私の本当の顔も中身も知らないのに最初から口説いてきた。体目的だとしても、今まで1度も告白を受けたことのない私にとっては至福以外の何物でもなかった。悪い人そうじゃなければ言われるがままについていった。ラブホテル、家族湯、家、またラブホテル。私はもう普通の高校生ではなくなっていった。

 だんだんと帰りは遅くなった。

 

 家族湯で砂利道に体を敷かれ無理やり襲われそうになったことがあった。トゲトゲの財布を持っていて無口で無愛想な男だった。

 男を突き飛ばして家に帰った。玄関の前で背中の擦り傷が冬の風に撫でられると、取っ手を握ったまま動けなくなってしまった。家族の前でどんな顔をして、どんな声色で、どのタイミングで笑うのかが急に上手く出来ないような気がして怖くなったのだ。

 私は取っ手からぱっと手を離すと踵を返すようにして近くのガストへ逃げ込み、冷たい冷たいソファに座って呆然としていた。季節限定のフォンダンショコラを小さく小さく口に運んだが、味がしなかった。ソファはいつまで経っても冷たいままだった。

 所詮、私には酷い目にあう運命を受け入れられる勇気はなかった。もちろん、殺される勇気も。

 両親との関係もこの頃から悪化していった。特に、元々折り合いのつかない父親とは一切口をきかなかった。話しかけられても無視をした。父が背を向けた途端中指を立てた。憎くて憎くて仕方なかった。私がこんなことになったのは全部お前のせいだ、と気持ちを込めて。

 私が自分自身を傷つけているという事実は、どう封じ込めようとしても迫ってきた。心のずっと奥に閉じ込めたつもりでも、必ず姿を見せた。「早く死ねばいい」と自分に言い聞かせながら生きた。

 

 酒を初めて飲んだのは大阪にいた頃だ。私は、寝る前に酒を飲まないと熟睡できなくなっていた。実際は睡眠の質が落ちるのだが、ぐっすり眠れると思い込んでいた。

 中学生の頃から不眠に悩んでいた私は、酒が解決してくれることをもっと早く知りたかった。もう、寝れないくせに睡眠用BGMを義務みたく流さなくていいし、目を瞑った先の暗闇の中で来てほしくない明日のことを考えなくてもいい。

 地元に戻ってからも飲酒は続いた。最初は度数の低いものしか飲めなかったが、どんどん高いものに手を出し、アルコールに弱い体質なのに無理に一気飲みをして、例え悪寒で震えてもやめなかった。

 半年後、明らかに頭が回らなくなっていることに気がついた。頭のどこか大事なところにずっと靄がかかっているような、鍵がかけられているような、そんな感じがした。大好きな本や映画にも触れる気さえ起きなかった。「思考停止」とはまさにこのことだ。

 そして、酒と同時に市販薬を大量に飲んでいた。いわゆるオーバードーズだ。誰かと会う前は必ず飲んでフラフラになった。フラフラして電車に揺られていると、座っているこの椅子も、土汚れた床も、周りにいる人たちも、車内アナウンスも、流れる景色も、開閉するドアも、その隙間から吹く風も、全て幻みたいだった。そして、私自身も。

 この幻がいつまでも続いて、終点は過去も未来も夢も希望も愛も平和も何も無い世界に着くことを願ったが、辿り着くのはいつも知らない男の最寄り駅だった。絶対に叶わない妄想をそこに置いて降りた。

 

 

 ついに私は補導された。Twitterでサイバーポリスに目をつけられ、待ち合わせ場所に向かうと4、5人の私服警官に囲まれてしまったのだ。

 すごく焦った。囲まれた瞬間、酒で鈍った頭を久々にフル回転させた。この時、私は恋をしている男がいた。25歳の社会人、出会い系アプリで知り合い、私が初めて最後までした男だ。部屋が汚くて、風呂に入らなくて、タバコ臭くて、そっけなくて、金色のガッシュベルと洒落た音楽が好きで、顔がかっこよくて、いつも車で迎えに来てくれる。自分でも驚くくらい大好きだった。この男の存在がバレたら、彼は捕まってしまうだろう。証拠を消さなければと思い、警察に抵抗して必死に時間を稼いだが、私にはLINEを消す暇も与えられず署に連れて行かれた。

 警察は1時間ほどかけて私のスマホを隅から隅までひとつひとつ舐めまわすように調べた。もちろん彼のことも聞かれた。彼氏でもない、ただ数回セックスしただけの彼のことを。LINEではそういう類の話はしていない。「友人」だと答えると怪しみながらも納得してもらえて心底ほっとした。

 持ち物検査で最後に化粧ポーチを見せた。その中には百均の小さなカッターを入れていた。自傷を疑われて手首を差し出したが、私に傷1つないのを確認すると、まるで100パーセント当たる景品が当たらなかったみたいな顔をされた。このカッターは、購入した洋服のタグを切るためにたまたま持っていた。本当にそれだけの理由だった。

 話はほとんど終わって警察が席を外した。顔をあげて辺りを見回すと誰も私を見ていなかった。この瞬間、私は生まれてから今まで感じたことのないどす黒い衝動に駆られた。散々傷ついて傷つけられて、もう我慢の限界だった。気がついたらさっきまで青白い血管を通していた私の綺麗な手首から赤い血が流れていた。自分でも驚いた。今までリストカットなんて漫画や映画の世界だと思っていたのにまさか私がするなんて。初めての現実でのリストカットは想像よりも簡単で、達成感にも似たものを感じていた。

 警察は慌てて飛んできて、私からカッターを取り上げた。

 「やっぱり普段から切ってるだろ。」

と満足気に決めつけた。

 この程度で警察に罪悪感を植え付けられただろうか。知り合いの沢山いる街で囲まれ、道行く人に見られ、親にバレて、生まれて初めて自傷をするまで絶望の淵に追い詰められていた。

 私を補導しても何の意味もない。例え心の底から反省してもまた繰り返すのだ。ある種、そういう病だ。

 警察は中年の男ばかりだった。本当に男なんて大嫌いだ。

 やがて母が迎えに来た。後から電話があり、警察に精神科の受診を勧められたが断った。

 

 警察に誤魔化してまで愛した男とは別れた。付き合っていないので別れたというのもおかしいが、補導されたことを受けて、彼は私と付き合うことを躊躇した。付き合う約束をしたから最後までしたのに。そこで初めて、彼からも好意を寄せられていると勘違いしていたことに気がついた。てっきり、私が未成年だから仕方なく付き合っていなかっただけで、会う度に好きになって、やっぱり付き合いたくなった、という滑稽なラブストーリーを信じ込んでいた。

 付き合わないがセックスは続けたいという彼にすっかり失望してしまい、LINEをブロックした。

 たった2日間経った後で激しく後悔した。体だけでもいいから何も関係を切らなくて良かったでは無いか。今までの人間関係でも、お互い好き同士でセックスしたことなんて1度もないし、散々貞操観念を捨て置いて、何を今更。しかし、例え私が未成年でなくても付き合って貰えなかったことなどわかっている。それが、「最初から本命外」の抗えない真実である。

 わかっていても、何度も何度もブロックを解除してメッセージを送信しようとしたが、1度もそうしなかったのは、その男と離れてからというものの私はすっかり抜け殻のようになってしまい、そこまで愛していたのを見透かされるのが恥ずかしかったからだ。

 

 モスバーガーを半年ばかりで辞めてからあちこちにピアスを開けまくった。両耳で20個、胸、鎖骨、へそにも開けた。もちろん痛かったが、街を歩くと人々に好奇の目で見られ、避けられるのが快感でやめられなかった。ピアスは強さの証であり、私のマイノリティなステータスであった。同級生でこんなにピアスが開いている人はいない、と優越感に浸れた。

 でも、これだけでは満たされなかった。大好きな人を失ったショックはずっと続いた。一緒に飲んだタピオカドリンクも、一緒に食べた回転寿司も、海沿いをドライブしたことも、スクランブルエッグにラー油を混ぜた不味い手作り料理も、夢に出てくるくらい苦しい思い出になっていた。事後に換気扇を回して丸椅子に座り怠そうにタバコをふかす。朝はお洒落な音楽を流しながらスーツを着る。そういう格好つけた仕草も、好きだからこそ様になっていた。私の同級生がまだ見たことの無いであろう景色をシングルベッドで毛布にくるまり、うっとりと眺めていた。

 

 私の恋愛が発展しないのは自分が太っているせいだと思った。昔から、太い足がコンプレックスだった。足だけではない。高校を辞めてからお菓子の食べすぎで15kgも太ったのだ。この体のせいで私は幸せになれない、男に追いかけて貰えない、そう思ってダイエットを決意した。

 夜ご飯を抜いて、最初は簡単に5kg落ちた。だがそこからはなかなか減らなかった。ある日ネットで、ご飯を咀嚼して飲み込まずに吐き出すという行為があることを知った。チューイングだ。最初は罪悪感が込み上げてきてできなかった。生まれてこの方、腐ったものと魚の骨と給食のレバー以外のご飯を残したことがない。オムツ用の消臭袋と黒のポリ袋まで買って準備万端にはしていたものの、なかなか最後の行動にまでは移せなかった。

 ところがある日、スーパーで買い物をしていると惣菜コーナーのコロッケが目に入った。ダイエットを始めてから揚げ物は久しく口に入れていない。見てはだめだと思いつつも物凄い引力のようなものにひきつけられてそこから目を離せなかった。惣菜コーナーのお気楽なゴシック体で、吐けばいい、吐けば大丈夫、と囁かれた気がした。私はコロッケをカゴに入れた。

 家に帰り、部屋を真っ暗にして卓上ライトだけをそっと点け、袋から出したコロッケを勉強机に並べた。コロッケと私だけが青白い光に照らされていた。なんだか最後の晩餐みたいだ。しかしそれは摂食障害に足を踏み入れる最初の晩餐であった。酒を減らして少しばかりクリアになった頭には十分すぎるほど理解できていた。

 でも私はそこまでして痩せたかった。痩せればこの不細工な顔もいくらかマシになるだろう。か弱く男性に守ってもらえるような存在になるだろう。

「愛してる」

と嘘をついてまでセックスするような男は近づいてこないだろう。

 箸をとり、大きなコロッケの端っこを1口噛んだ。それは「ザクザク」とうまそうな音を鳴らし、唇に懐かしい脂の感覚を迎えた。それから10回くらい噛んだ。喉の奥に流されないようにゆっくりと。そして、恐る恐る袋に吐き出した。

 その時やってしまった、という後悔より、やってやったという爽快感を感じた。

 咀嚼物をビニール越しに下から触ってみた。生暖かくて、生きてるいるみたいで、気持ち悪かった。

 そうしてまた5kg痩せた。援交で稼いだ金は市販薬とご飯代に全て消えた。食料と私の唾液が混ざりあったゴミ袋がどんどん部屋に溜まっていくと同時に、体にあまり力が入らなくなってしまった。少し家事をしただけで動悸と息切れがした。

 

 ある日の食事中、ふと何かを飲み込んだきっかけで過食が始まった。それはダムの決壊に似た勢いだった。既に壊れているものがまた壊れた。

 菓子パン、ファミリーパックのお菓子、アイス、酒、インスタント麺、毎食、毎日のように続いた。食べてしまった後悔から吐きたくなった。ネットで調べて「過食嘔吐」を知った。私はみるみるうちにリバウンドした。

 壁1枚の向こうで家族がテレビを見る音が聞こえる。我に返りそうな気持ちをこらえた。私は今から嘔吐しなければならない。

 小学校6年生以来、今まで1度も吐いたことがなかった。吐くことにも恐怖感があった。

 指ではうまくいかず、スプーンにティッシュを何枚も巻いて、喉の奥に突っ込み何度も嗚咽した。最初はよだれと涙だけが垂れ落ちるだけで、私の待ちわびたものはなかなか出なかった。

 やがて、吐けないストレスでリストカットをするようになった。部屋を真っ暗にして、お気に入りの音楽を流してリズムに乗ってリストカットした。痛みに耐えることで私は強くなった気がした。そして無数の傷跡に恍惚としていた。コンビニで金を払うときに店員がぎょっとしたり、家族にも一線を置かれたりしても構わなかった。

 少し吐けるようになると、もっと大量に吐きたくてたまらなくなった。もっと沢山食べたい。食べるために沢山吐きたい。

 Twitterの情報を得て、Amazonでチューブを買った。チューブの先をカッターで面取り、コンロで炙って飲み込んだ。水を大量に飲んで、苦しみ泣いた。私は何をしているのだろう。誰かに助けて欲しい。

 過食した後は死にたくなって、酒で薬を40錠飲み、リストカットするのがセットになった。自殺できない私のお気の毒セットフルコースだ。季節は高校3年生の冬に差し迫っていた。

許せないこと

 許せないことは許したいことでもある。

 

 今1番許せないことは生理痛だ。許せたらどんなに良いか。女にしかないこの身体の仕組みが憎い。かといって男になりたい訳では無い。血が出ること、全身痛むこと、ほんの少しだけでも軽くなったら許せるかもしれない。もし男にも生理があるなら…国会議員の男女比はどうなるのだろうか。まあそんなことはどうでもいい。

 

 父は愛に飢えている。そして私自身も。愛を渇望する親子は「お前じゃない、お前でもない」とすれ違い、いずれ「親」として、「子」として見なくなる。

 2年間、父のことを無視した時期があった。そして家を出て気がついた。父は可哀想な人だと。

 子に愛されず、子を愛することも出来ない、愛してもいない人が妻で、妻も夫を愛さない。ちやほやしてくれるのは教会の人間と海の向こうの母だけ。父はその人達のためにあっちへこっちへと忙しいようでほとんど家にいない。

 

 私は他人に愛を求めるようになった。父くらいの年齢の他人に父の理想像を求めた。数多く出会い、自分を差し出した。いっときの自己肯定感が満たされることに浸る間もなく急落していく。落ちて、転がって、見えない奈落の底にスリルと現実逃避感を覚えた。

 

 そうか、哀れな人なんだ、と納得できても、もう遅い。今の私はこの関係を再構築したいと思わない。思いたくてもできない。許せないからだ。

 でも見捨てたら、父は一生カルト宗教から抜けられず、孤独に、ただただ死後の楽園だけを頼りに生きるのだろう。

 「統一教会」、「カルト2世」…大事件が起きてから連日ニュースで盛り上がっている。文字を見ただけで緊張が走り、私にとってはただの夫婦の写真に何度もひざまずいたときのカーペットのカビ臭さと息苦しさをくっきりと思い出す。

 信じるものは自由だ。天国や地獄を信じるのも自由。大まかな教義は世界三大宗教と比べて特に大差は無いように思える。では何が問題なのだろうか、何が私の心の中で父を許すことにストップをかけているのだろうか。母を蔑ろにするから?無職だから?癇癪持ちだから?挙げたらキリがないほど欠点の多い父だ。でも、果たして許せないほどのことなのだろうか。落ちきって、散々見下して、呆れて、しまいには哀れんでいるこの私に許す権利はあるのだろうか。

 

 「父のせいで」という事実は確かにそこにある。以前の私は、その事実に自分が傷ついた責任を全て押し付けた。根深く、執拗に、なりふり構わず憎しみをぶつけた。同じくらい自傷もした。

 でも実際行動したのは自分だ。自分で破滅した。責任を取るのが、現実を見るのが怖かったのだと思う。思春期を迎えた頃から四六時中イライラしているのは自分に向けたものなのだと気づいた頃、20歳になってしまっていた。

 

 もちろん幼い頃受けた暴力・暴言のトラウマは消えない。頭上に手が来るだけで全身が強ばり心臓が潰れて息ができない。

 中学生から続く不眠症。何時間も何時間も睡眠用BGMをタップしては目覚めて、タップしては目覚めて…新聞配達のバイク音で「明日は学校を休もう」と決める。白み始めた空を睨んでようやく眠る。

 

 父は、怒り以外では愛に溢れた人だった。私がその一面を信用できず、許すことができなかった。愛に応えないで、はっきり「嫌いだ」と抵抗したせいで父からは愛が消え去り怒りだけが残った。家族がぎくしゃくするのは全部私のせい。

 

 2年間無視をした末、急に「もうやめよう」と思い立ち、大人になった自分を作って許すふりをした。当たり障りのない、上っ面の会話しかできない。お互いそれを望んでいるからだと思う。干渉しない、関わらない。

 

 読み返したら最早ラブレターのようだ。

 私にも当たり前に父のことを好いていた時がある。父を自分の父だと認めていた時がある。私が大きくなり、現実を知りすぎたのがいけなかった。

 せめてカルト宗教じゃなければ…私は産まれていなかっただろうが、別の世界線の私が反抗期をごく普通に終えて、ごく普通に父親を許せていただろう。父と酒を飲み、進路を相談して、彼氏を会わせて、介護をして、嗚咽を漏らしながら大衆的な天国へ見送るはずだ。

 

 いつか許せる日が来るはずだ。勇気を出して2年間の沈黙を破った時のように、閉ざされた心を開く時が必ずくるはずだ。何年後かはわからない。わかるには私はまだ幼すぎる。

いーとーまきまき

 たかが下糸の巻き方をあと何回検索すれば覚えられるんだ。

 お菓子やパンのレシピはすぐ覚えるというのに。腹の足しにならないものは、すぐこうやって蔑ろにする。

 

 何年も家で眠っていた生地や裁縫道具を漁っていると鼻炎が酷くなってしまい、顔面が強制労働で泣きかけているサンタのようになってしまった。

 

 私が中学生の頃、母が作ってくれたティッシュケースは柴犬柄でとても可愛い。

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 母の大雑把な性格がとてもよく現れた糸ほつれの数々。そしてついにボタンが「荷が重いです」と言わんばかりに限界を迎えて弾け飛んだ。そんなのをちょちょいと直すのは朝飯前である。なぜなら私はミシンを扱えるからだ。

 

 小学生(多分高学年くらい)の家庭科の授業でエプロンを作る課題があった。

 既に家でミシンを使って遊んでいた私は、学校の古いミシンを「ウィンウィン」と得意げに唸らせ、まるで馬車馬の如く最速で縫っていた。

 作業を進めていたら、その激しい嘶きに駆けつけてきた先生に「危ないですよ」と叱られ、少し気に食わなかった。

 

 しかし、今こうして家で裁縫をしていても誰にも叱られない。前住んでいた軽鉄骨会話丸聞こえアパートなら騒音で通報されていただろう。

 でも今は一軒家なので安心だ。スピードが速かろうが遅かろうが自己責任であり、怪我をしようがしまいが自己責任だから。

 そして、売り物ではないので雑に作っても花丸。無重圧裁縫万歳。

水戸黄門にはなれない

しゅごキャラはついていない。

大統領にもなれない。

もうすぐ20歳になるというのに。ショックだ。

 

 たまたまつま先にぶつかった小石がカラカラと転がって狭い側溝の口にポトンと落ちた時、なんだか申し訳ない気持ちになる。でもちょっとラッキー。

 

 どん底だった時、何とか助かりたくて本気で尼さんになろうと考えた。尼になる方法だとか出家だとかを本気で調べることは多分病んだら1度は通る道だと思う。こんなふうに人生をなめてはいけない。

 

 イヤホンを耳に入れて電車に揺られていると、ふと外の景色を見たくなる。目線をスマホから車窓へずらすとき、向かいに座る乗客の目を見ないようにあくまで自然にすっとスマートにやるぞと決めてもそれさえ上手くいかない。バチッと目が合って気まずい。何も上手くいかない。

 

 電車に乗る瞬間、バスに乗る瞬間、病院の待合室に入る瞬間、カフェに入る瞬間どうしてあんなにじろじろと見られるんだろう。スカートがめくれてパンツが丸見えなのだろうか、顔が変なのだろうか、風に煽られて髪の分け目が7:3になっているのだろうか、もしくは私の頭上から隕石が迫ってきているのだろうか。 

 「痛かったら手をあげてくださいね。」

歯科衛生士さんのプライドを傷つけてしまわないだろうか…。私の自意識過剰は日を追う事に加速している気がする。

 

 電車から降りてもまだまだ気は抜けられない。改札をスムーズに通るために歩き進めながら脳内でICカードをタッチする瞬間のシュミレーションする。「ピッ」のこの瞬間に何秒かけるか、カードの持ち方、残高を見るか見ないか、歩く速度をどの地点からどのくらい遅くするのか、無事クリアした後の涼しい顔まで細かく。

 私は今まで通った改札の数は覚えていないが、博多駅で新幹線口の改札を出た時だけははっきりと覚えている。それまで過疎地域のぬるま湯にどっぷり浸かっていた私は、後ろに大行列を率い皆がせかせかと歩くというシチュエーションにとてつもないプレッシャーを感じていた。しかし緻密なシュミレーションと今までの成功体験から来る自信のおかけで堂々とゴールできた。手汗はびっしゃりだったけど。

 

 私みたいな人は冗談抜きに全体人口の10%以上はいると思う。そういう人のために【改札〜のんびり〜】みたいなのを別途設置してほしい。気負わず、手に汗も握らず、時間に余裕がある人のための改札。

 でもそんなの作るお金と時間と労力があるなら保育園を増やせとも思う。

 

 小学校から家に帰りテレビをつけて真っ先に観るのはEテレではなく水戸黄門だった。だんだんと画質が鮮明になり、音質がクリアになり、ヅラの分かれ目までもがはっきりわかるようになると観なくなってしまったが。

 水戸黄門になりたかった。身体能力の高い仲間がいて、世の中をよくして、悪者は土下座でひれ伏す。憧れでしかない。

 

 もしあの紋所を電車の向かいの席の人々の目に入らせることができるのなら、私が車窓から流れる景色を気楽に眺めることができるよう、ぐっすりと寝入って頂きたい。

自分語り⑵

 保健室の消毒液の匂いより保健室の先生のお化粧の匂いとハンドクリームの匂いの方が好きだった。

 

 どうしても体育が嫌で行きたくなかった。この病気を持っていると大抵どの授業も苦痛だが、ゴリラのような見た目の学校一怖い先生が話している時間は枯葉が転がる音さえも目立つくらい静まり返るので、お腹にどんどんガスが溜まっていくのがしんどくて堪らなかった。

 授業時間が迫るほどお腹の痛みが増してまた逃げ出してしまった。ふらふらとうつむいて保健室に駆け込むと、先生は心配そうな顔で迎え入れてくれた。

 すっかり錆びてギシギシ音のなるパイプ椅子に座り、左手は冷たいお尻をあたためるように下に敷いて、またいつものように「腹痛」、とチェックをいれる。

 なんだか疲れ果て、寝不足も重なり、ストレスが爆発寸前で今にも泣き出しそうになった私を見て先生は何も聞かず、「特別に」と温かい紅茶を淹れてくれた。ひと口すすり、ほっとするのと同時にこんな私に優しくしてくれることへの申し訳なさで泣いてしまった。

 いつも1時間休むところを2時間も休ませてもらった。

 

 保健室より奥に校長室、その奥に会議室、その奥に職員用のトイレがある。お腹を下すことが多く、普段同級生が使うトイレでは用を足す勇気がなかったので毎回そこに立てこもっていた。小窓からみんなの走る声が聞こえる。体育のハツラツとした雰囲気で私は焦燥感に襲われた。

 10分は踏ん張って30分は小バエと一緒にトイレの鏡に映る自分をぼーっと見ていた。胸ポケットに入れておいたピンセットで小鼻の産毛を抜くこともあった。痛みで涙が出てスッキリした。

 

 中学2年生と3年生は学校生活の半分の日にちを休んでいた。登校した日の半分は早退した。高校受験の時、先生と親に「通信制高校に通いたい」と相談したが大反対されたので、近くの公立高校を受験することになってしまった。

 その高校は自称進学校で勉強が大変なのが有名だった。姉と兄が卒業生であり、過酷な学校生活のことはよく知っていた。そんな学校へ行きたくなかったし通える気が全くしなかったので、試験前2週間は勉強せずに、朝起きて夜寝るまでずっと漫画を読んだ。君に届け花より男子進撃の巨人、ワンピース、ブッダブラックジャックを読破した。それなのになぜか受かってしまった。数学なんて大問1すら解けなかったと言うのに。

 

 高校生になっても相変わらずガスと下痢が止まらなかった。唯一の楽しみだった部活のミーティングでさえも必死で我慢して好きなことなのに辛かった。

 この調子で病気が治るはずもなく、夏休みの宿題を一切手につけなかった時点で私の中で何か諦めがついてしまい、完全に学校に行かなくなった。

 そこから学校を辞めるまでの数ヶ月間は大変だった。毎朝学校に行きたくないと泣きながら発狂する私VSおならくらいでアホらし、学校に行けと一切病気を理解しない両親。

 一度学校のすすめで心療内科に行ったが、母が隣にいて何の相談もできなかった。たったひとつ、「人の目がこわいです。」と呟くと、先生は「整形すれば?」とにこやかに言ったのであっけに取られた。今考えても意味がわからない。

 そんなこんなで「あなたは鬱でもないし大丈夫。」と太鼓判を押され、母にも「ほらね、病気なわけが無い」と呆れられ、学校だけでなく家にも居場所がなくなってしまった。追い詰められた私は性に走ってネットで知り合ったおっさんにおしっこを飲ませた。

 結局1年生の冬を目前に通信制高校へ転校した。

 

 

 大阪の家は父の参加する宗教関連の事務所でもあったので月一回集会が開かれていた。

 クリスマスはファミマのチキンを予約して取りに行かされた。おつかいから帰り、おじさんABCDEとおばさんABCDEに適当に挨拶して、顔も名前も知らない他人が作ったカレーをいやいや食べていた。

 味わいたくない一心でカレーを一気に流し込んで我先にとチキンへ手を伸ばしたとき、突然、左隣に座っているおっさんに何歳かと訊ねられた。伸ばしかけた右腕をずるずる戻し、「17歳です。」と答えると、そのギトギトきのこヘアーのおっさんはカレー臭い口をこちらに向けて「じゃあ祝福を受けないとだね。」と、丸メガネをいやらしく光らせた。気持ち悪い。右隣の父に目で助けを求めた。同じく四角いメガネを光らせてニヤニヤしていた。なんでだよ。最悪だ。最悪なクリスマスだ。悪夢だ。

 仰々しい額縁に飾られた教祖様が笑っている。私にとってはただの爺さんと婆さん。気が狂いそうだった。

 教祖様の神聖なる不思議なパワーで自分の結婚相手をマッチングしてもらい、合同結婚式で大金を献上して子を沢山こさえること。そうして生まれたのが私、ピカピカのカルト二世だ。

 祝福を受けろだって、死んでも嫌だ。そう言いたいのをぐっとこらえ、口角だけ上げておいて、今度こそ1番大きいチキンに躊躇せずかぶりついた。

 信者の家族の中には、たまに私と同じような表情をしている者がいる。諦め、不快、帰りたい、でも仕方ない、みたいな。祈祷の時間は皆が目を瞑りブツブツ何かを唱える最中で、私はこの地獄が早く終わりますようにとはにわのような顔をして時が過ぎるのをひたすら待つ。同じくはにわのような顔をしている無理矢理連れてこられた人達と目が合って、お互いそっと逸らす。

 

 「集会に参加したくない。」と父に言うと、脂肪分多めの般若顔で怒られた。

「いいから参加しろ、よくしてもらってるだろ。」

 ゴミ同然の古着を何枚も押し付けられただけじゃん。お父さんの小遣いが回ってきただけじゃん。名前も知らないおばさんのヨレた古着。ほぼパトロンのお金。気持ち悪い。

 

 私は、小さい頃からどうにもこうにも教会の雰囲気が合わず、よくわからない爺さんと婆さんの写真に「ははーっ」と土下座するのが苦痛で仕方なかった。カーペットがカビ臭くて、信者のおばさんの香水がキツくて、飾られたユリの花粉が鼻をくすぐって。「勉強」の時間になると誰もいない部屋に引きこもって終わるまで寝ていた。

 その宗教が一概に悪いとは言わない。何かを信仰するのは自由だし、入信することで幸せに暮らしている人もいるだろう。ただ私には合わなかった、それだけだ。

 教会関連のことを調べていると私は婚前交渉をしたのでサタンに堕落するそうだ。地獄に落ちるはずなのに、なぜか嬉しかった。この世でもう既に地獄を味わったのであの世には天国も地獄もないと思う。サタンだろうがなんだろうが安心して逝く。

 

 「離婚」という言葉と意味を覚えてすぐ、信者でなくなった母に繰り返し「離婚して、離婚して」とだだをこねていた。

 母が仕事でいない日はちょっとしたことで父に怒鳴られ兄妹並べて正座をさせられる。「豆1粒でも分け合いなさい」などと説教が始まり、次第に「だからあの女の子どもは」と母の悪口も止まらなくなる。自分の子どもでもあるだろとその言葉に違和感を感じるがぐっと黙り、いつも締めには「手を出せ」と言われて棒で叩かれる。常にその「お仕置き棒」を持ち歩いて振り回し、「お仕置きするぞ」と脅された。物凄く痛かった。足の指を叩かれることもあった。私の頭の上で大きく手を振りかざし叩こうとする身振りで心臓がぎゅっと縮んだ。逃げたらおしりを蹴飛ばされた。

 「豆1粒でも」とは言うが自分ばかり旅行に行って美味しいものを食べて仲間にちやほやされて、長女ばかり甘やかしてどの口が、と鼻で笑う。反抗できる歳になってこう話したら、案の定顔を真っ赤にしてしこたま怒られた。

 そんな父は母が仕事から帰ってくると人が変わったようにニコニコして寝る前はキスまでしてくる。こんな毎日に慣れてしまっていた私もどこか頭のネジが外れているのかもしれない。

 母に父の暴力を相談したら裏で一悶着あったのか、お仕置き棒の出番はなくなった。しかしお仕置き棒で育てられた兄との喧嘩ではお仕置きゴムチューブなるもので身体中打たれるようになってしまった。なるほど、こういうふうに連鎖するのだなと目の当たりにした。私も妹との喧嘩ではかなり高圧的になり、全て思い通りに支配したくなる衝動に駆られたことがある。父そっくりの顔で、父そっくりに怒って。嫌悪感で吐き気がする。

 父は手を出さなくなったのはいいとして、言葉の暴力が倍増したり、物にあたって床に大きな傷をつけたりするようになった。ある日、私がアメーバピグに熱中していたら突然パソコンを奪って顔に思い切り投げつけられたことがあった。私の代わりに「ジジジ…」と泣き、ぐちゃぐちゃに壊れて青くなったパソコンをながめ、自分の反射神経を褒め讃えた。

 

 大阪でも私の居場所はなくなってしまった。父の命令で実家に帰らせられたからだ。

創作⑵

 肛門の酸っぱいにおい。

 「うっ」と思わず顔をしかめた。男はうつ伏せで寝そべっているので、そのトドのような背中に私の最大級の恨み顔と音の鳴らない舌打ちを見舞った。

 「さっきしっかり洗ったのになあ。」

気持ち悪い。

 

 仕事が終わり次の客の準備をする。浴槽をさっと拭きあげお湯をためる間、新しく出したタオルのビニールを破り枕に1枚、ベッドの上に2枚敷く。魔法瓶に入れてきた温かいお茶を素早く飲み、舌の上に残る男性器の味をハーブティーで流し込む。瞬間、脳内にはハーブ畑が辺り一面に広がり、この美しさに相応しくない汚いものは出来るだけ遠くへ遠くへと追いやりながらベッドに横たわった。

 瞬間、背中はほんのりと生暖かさに包まれるがミニスカートの膝下から感じるその寝心地は最悪で、1000回以上は洗濯してるのではないかというくらいゴワゴワしたこのタオルが嫌いだ。何よりも人間臭いのが大嫌いだ。

 私はそんな最悪な悪臭タオルの上でスノーエンジェルの真似事をする。天使を作れたことは一度も無い。きっと風俗嬢だから。しわくちゃになってしまった寝床を整えて、また寝転んだ。

 

 水を足されまくった薄すぎるボディソープ5プッシュ、どこまでも伸びるローションひと絞り、グリンス3プッシュ、お湯約1秒、百均のプラスチックの桶に入れてクルクルと滑らかな泡を作る。ローションがネトネト手にまとわりつくのが気持ち悪い。

 しゃがんでできた腹の肉を数秒ぼんやりと眺めていた。今この瞬間、世界で1番醜くて不幸な顔を写しているだろうなと思った。

 

 アウトシャワーで死んだ顔の真似をしながらおしっこを絞り出すと時間差で尿道がジク、と痛んできた。

 「やっぱり手マン断ればよかった。」

 性器に残ったローションが鼻につく。それを掻き出す指先が大嫌いだ。すっかり冷えた脚にかかる熱いお湯が私をよりいっそう惨めにさせるように湯気をたてていた。

 

 みんな死ぬ。こいつら全員まとめて死ぬんだ。私も死ぬ。客は嬢を見下し嬢は客を見下し内勤は客と嬢を見下し世間は客も嬢も内勤も見下し、いずれ私はコンドームに吐き捨てられた精液のにおいさえわからなくなってゲロ臭い街で朝から晩までセックスしてタバコの煙にむせて出勤の度に死化粧を重ねていくのだろう。タオルをあと何枚重ねたらミイラになれるのだろう。そんなことばかり考えている。

 

 出会ったばかりの人間の性器を自分の性器にねじ込ませると当然鳥肌が立つ。膣が全力で拒否していても私は振り子になりきってゆらゆらと単調に揺さぶられ、痛みもこめかみの奥へしまいこんで、両手は枕を掴んで秒針でも数えていれば案外心は壊れなかった。経験値が100を超えた辺りで性器の感覚を一時的に無くす技まで得た。

 あとは強く抱き寄せて適当に「ああ」だの「いい」だの発しておけば例え客に不満がられても私はお金が貰える。演技が商売なのだから。

 

 ソープ小屋というのは本当に牢獄のようで窓がないのが基本だ。逆に窓があるとそこから飛び降りてしまうような気もするけど。

 ヘルス小屋の大鬱の集大成感やデリヘルの犯罪監禁感よりは多少清潔感があってマシだが、数ミリのコンドームで真っ裸の身を守ることは、なんて陳腐で下品で最悪なんだろう。

 この最低な牢獄の空気を吸って吐いて最低な空気が体を循環する。気持ち悪い。息が詰まってこのまま死ねばいいのに。

 

 作業のようなセックスでも根が怠け者の私は限界を感じた。勃起どころか萎えさせてばかりでもうなんのモチベーションも残っていなかった。

 

 気がつけば病院通いになっていた。耳鼻科だの産婦人科だの肛門科だの、今まで税金を払ってきて良かったと心底思った。

焼肉や

 彼氏と付き合って1ヶ月も経たないくらいのとある冬の日、叙々苑へ連れて行ってもらった。

 まさかあの叙々苑へ行くなんて知らされていなかったので、手持ちの服の中で1番高いが半額セールかつウン年前に買ったこの勝負服が急に恥ずかしくなり少々縮こまった。

 

 私は今まで焼肉というものは場末のすたみな太郎とフローリングに新聞紙を敷いてカセットコンロを家族でぐるりと囲み1Lコーラを片手にせっせと貪り食らうサムギョプサルしか知らなかった。そのため、恋人とはいえ知り合って間もないよそよそしい男と高級焼肉店の暖簾をくぐるあの瞬間、いや、もう「叙々苑」の文字を捉えた瞬間から私の緊張は限界に達し、脳内では何故か中学生のとき歴史の教科書で見た「ええじゃないか」と踊り狂う人々がご丁寧にメロディ付きでサイレンのようにグルグルと回りだした。

 

  「いらっしゃいませ。」

 滑らかで高そうなスーツを身にまとい、胸元に黄金の名札をピカピカ光らせた店員にうやうやしく案内され、私は相も変わらず「ええじゃないか…ええじゃないか…」と1歩1歩ちんたら進んでいった。そうしてネカフェの半個室のような席に到着したカップルとええじゃないか一行は、やれコートをかけて布を被せるだの、やれマスクケースだの、やれ紙エプロンだのなんだのと、まだ何も頼んでないのに至れり尽くせりだなあと関心したものである。

 

 友人が少なく、その中でも直接会うような友人が指3本程度で足りてしまうような私は、「キリッ」という効果音の似合う初対面の店員さんと出会ってたったの数分で沢山やり取りをしたのでなんだか疲れ果ててしまい、早く肉を食べたいという思考が脳内の支配勢力をぐんぐん拡大して、いつの間にかええじゃないか一行は踊りをやめていた。

 彼と縦長のランチメニューを広げる。ランチとはいえびっくり高い。しかもこんな雀の涙ぽっちで…副菜と肉、どっちがメインかわからんなこりゃ。一瞬、私の大好きなパルムを何個買えるのか計算しかけたが、まあよく知らないけど焼肉ってこういうものだよな、と自分を納得させた。

 どういう訳か彼が奢ってくれるらしいので遠慮しい(という名の控えめで良い子だなあと思われるための策)の私は1番安いサービス焼肉ランチを選んだ。

 そしてまた店員にやれ米の量だのやれニンニクの有無だの細かく尋問され、架空のダイエットのため米を減らし、もはやそれは焼肉ではないといっても過言ではないニンニク抜かしという大罪の下、ボケた焼肉ランチを頂くことになった。

 彼と向かい合って他愛もない話をしながら、「ああ、今日はメイクが上手くいかなくてファンデーションがモロモロになっているだろうし、個人的な研究結果のもと、この薄暗い絶妙な照明にあてられる場合は私のデカ鼻が浮かび上がり前髪の影がギザギザと刺して物凄くブスだろうな。今すぐにでもスマホで顔を確認したいけどスマホ見たら失礼だよなあ。」などとぶつくさ考えながら肉を待っていた。

 

 こんな情緒不安定でいるし彼ともうまく話が続かず気まずくなってきた。私は品の欠片もなく空腹でソワソワし始めた。あらかじめ紙エプロンを身につけてまだ何も乗っていない網に熱狂的瞬間を空想していると、滑って頭をぶつけたら綺麗に死ねそうなツヤツヤのテーブルにお肉が堂々と登壇した。さあ、ようやくこの時がきたのだ。

 ご飯と豆腐と葉っぱとスープとナムルとキムチとタレとデザートまで…次々と運ばれてくる。そして肉。圧倒的存在感。メニュー表ではちっぽけなもんだと鼻で笑っていたのに、どういう訳か上から見ても下から見ても全てが肉の脇役であった。

 ひと通り脇役を腹に収めた後、触ったことのない小さいトングで芸術作品のように整列した肉を1枚、恐る恐るつまみ、網にそっと乗せた。

「ジュワアア。」

ピンクが一斉に弾けていく。これが叙々苑の焼肉か。なるほど、音が違う。多分違うけどそう感じた。

 およそ1分かそのくらいでひっくり返した。とても薄い肉だったので網に少々引っかり、この肉片が勿体なくて、咄嗟にいくらになるのか計算しそうになった。それから裏面を焼いて30秒くらいでタレの入った皿に入浴させた。どう見ても生焼けだったがもう待ちきれないし腹の虫も早くまともなタンパク質をくれとギャーギャーうるさいのでお腹を壊したとしてもまあよかった。しかしそれを見た彼に「まだ早いよ!」と叱られ、渋々火炎地獄へと帰した。焼肉を心得た彼の手さばきを観察して焼き加減というものを学び、片手には白米をスタンバイさせ、ついに肉を頬張る。

 「ジュ…ジューシー…。」ああ、ジューシーとはこういう事なのか。お肉の脂がするりと舌を撫でて歯が手を叩いて喜ぶように咀嚼しもう言葉にならなかった。

 

あれよあれよと食べ進め、3か4枚目に突入した辺りで焼肉初心者の私はふと疑問が思い浮かんだので、焼肉プロの彼に聞いてしまった。

 「これって何肉なの?」

 今思えば、声のボリュームをもっと下げるべきだった。まるで山賊が死闘の末に金銀財宝をゲットしたかのように、私はこの宝石のような肉たちに舞い上がっていたので、普段より少し大きな声で話してしまったと思う。とんだ恥さらしだ。もしあの時近くに店員がいてこの会話を聞いていたのなら、バックヤードにいる社員やバイト、その家族や友人にまでみすぼらしいコートを着たとんだ貧乏人がいたと、あの店舗が潰れるまで語り継がれるかもしれない。

 彼は私からのまさかの質問に数秒固まって、

「牛肉に決まってるじゃん。」

と笑った。そう言われても、肉の部位は「タン」と「肩ロース」と「シャトーブリアン」くらいしか知らないし、焼肉屋なんだから豚肉だってあるはずだし…

 ううん、でもまあ確かに3千円のランチで豚肉が出てくるのなら誰も行かないし、そんなことよりも3枚か4枚か味わっておいて私は牛肉の味というものがわからなかったのか。

 ちょっとショックを受けたが、自分でもこのアホさに面白おかしくなって一緒にヘコヘコ笑い合った。

 

 私はそれから彼に焼肉の魅力を叩き込まれ、食わず嫌いだったホルモンが大好きになった。もしかしたらあのとき見分けもつかなかった牛肉の誇りを傷つけた恨みに取り憑かれたのかもしれない、とパルム約40個分のレシートをゴミ箱に捨てた。