ひねくれ者のくだらない話

特に深い意味はない。

自分語り⑵

 保健室の消毒液の匂いより保健室の先生のお化粧の匂いとハンドクリームの匂いの方が好きだった。

 

 どうしても体育が嫌で行きたくなかった。この病気を持っていると大抵どの授業も苦痛だが、ゴリラのような見た目の学校一怖い先生が話している時間は枯葉が転がる音さえも目立つくらい静まり返るので、お腹にどんどんガスが溜まっていくのがしんどくて堪らなかった。

 授業時間が迫るほどお腹の痛みが増してまた逃げ出してしまった。ふらふらとうつむいて保健室に駆け込むと、先生は心配そうな顔で迎え入れてくれた。

 すっかり錆びてギシギシ音のなるパイプ椅子に座り、左手は冷たいお尻をあたためるように下に敷いて、またいつものように「腹痛」、とチェックをいれる。

 なんだか疲れ果て、寝不足も重なり、ストレスが爆発寸前で今にも泣き出しそうになった私を見て先生は何も聞かず、「特別に」と温かい紅茶を淹れてくれた。ひと口すすり、ほっとするのと同時にこんな私に優しくしてくれることへの申し訳なさで泣いてしまった。

 いつも1時間休むところを2時間も休ませてもらった。

 

 保健室より奥に校長室、その奥に会議室、その奥に職員用のトイレがある。お腹を下すことが多く、普段同級生が使うトイレでは用を足す勇気がなかったので毎回そこに立てこもっていた。小窓からみんなの走る声が聞こえる。体育のハツラツとした雰囲気で私は焦燥感に襲われた。

 10分は踏ん張って30分は小バエと一緒にトイレの鏡に映る自分をぼーっと見ていた。胸ポケットに入れておいたピンセットで小鼻の産毛を抜くこともあった。痛みで涙が出てスッキリした。

 

 中学2年生と3年生は学校生活の半分の日にちを休んでいた。登校した日の半分は早退した。高校受験の時、先生と親に「通信制高校に通いたい」と相談したが大反対されたので、近くの公立高校を受験することになってしまった。

 その高校は自称進学校で勉強が大変なのが有名だった。姉と兄が卒業生であり、過酷な学校生活のことはよく知っていた。そんな学校へ行きたくなかったし通える気が全くしなかったので、試験前2週間は勉強せずに、朝起きて夜寝るまでずっと漫画を読んだ。君に届け花より男子進撃の巨人、ワンピース、ブッダブラックジャックを読破した。それなのになぜか受かってしまった。数学なんて大問1すら解けなかったと言うのに。

 

 高校生になっても相変わらずガスと下痢が止まらなかった。唯一の楽しみだった部活のミーティングでさえも必死で我慢して好きなことなのに辛かった。

 この調子で病気が治るはずもなく、夏休みの宿題を一切手につけなかった時点で私の中で何か諦めがついてしまい、完全に学校に行かなくなった。

 そこから学校を辞めるまでの数ヶ月間は大変だった。毎朝学校に行きたくないと泣きながら発狂する私VSおならくらいでアホらし、学校に行けと一切病気を理解しない両親。

 一度学校のすすめで心療内科に行ったが、母が隣にいて何の相談もできなかった。たったひとつ、「人の目がこわいです。」と呟くと、先生は「整形すれば?」とにこやかに言ったのであっけに取られた。今考えても意味がわからない。

 そんなこんなで「あなたは鬱でもないし大丈夫。」と太鼓判を押され、母にも「ほらね、病気なわけが無い」と呆れられ、学校だけでなく家にも居場所がなくなってしまった。追い詰められた私は性に走ってネットで知り合ったおっさんにおしっこを飲ませた。

 結局1年生の冬を目前に通信制高校へ転校した。

 

 

 大阪の家は父の参加する宗教関連の事務所でもあったので月一回集会が開かれていた。

 クリスマスはファミマのチキンを予約して取りに行かされた。おつかいから帰り、おじさんABCDEとおばさんABCDEに適当に挨拶して、顔も名前も知らない他人が作ったカレーをいやいや食べていた。

 味わいたくない一心でカレーを一気に流し込んで我先にとチキンへ手を伸ばしたとき、突然、左隣に座っているおっさんに何歳かと訊ねられた。伸ばしかけた右腕をずるずる戻し、「17歳です。」と答えると、そのギトギトきのこヘアーのおっさんはカレー臭い口をこちらに向けて「じゃあ祝福を受けないとだね。」と、丸メガネをいやらしく光らせた。気持ち悪い。右隣の父に目で助けを求めた。同じく四角いメガネを光らせてニヤニヤしていた。なんでだよ。最悪だ。最悪なクリスマスだ。悪夢だ。

 仰々しい額縁に飾られた教祖様が笑っている。私にとってはただの爺さんと婆さん。気が狂いそうだった。

 教祖様の神聖なる不思議なパワーで自分の結婚相手をマッチングしてもらい、合同結婚式で大金を献上して子を沢山こさえること。そうして生まれたのが私、ピカピカのカルト二世だ。

 祝福を受けろだって、死んでも嫌だ。そう言いたいのをぐっとこらえ、口角だけ上げておいて、今度こそ1番大きいチキンに躊躇せずかぶりついた。

 信者の家族の中には、たまに私と同じような表情をしている者がいる。諦め、不快、帰りたい、でも仕方ない、みたいな。祈祷の時間は皆が目を瞑りブツブツ何かを唱える最中で、私はこの地獄が早く終わりますようにとはにわのような顔をして時が過ぎるのをひたすら待つ。同じくはにわのような顔をしている無理矢理連れてこられた人達と目が合って、お互いそっと逸らす。

 

 「集会に参加したくない。」と父に言うと、脂肪分多めの般若顔で怒られた。

「いいから参加しろ、よくしてもらってるだろ。」

 ゴミ同然の古着を何枚も押し付けられただけじゃん。お父さんの小遣いが回ってきただけじゃん。名前も知らないおばさんのヨレた古着。ほぼパトロンのお金。気持ち悪い。

 

 私は、小さい頃からどうにもこうにも教会の雰囲気が合わず、よくわからない爺さんと婆さんの写真に「ははーっ」と土下座するのが苦痛で仕方なかった。カーペットがカビ臭くて、信者のおばさんの香水がキツくて、飾られたユリの花粉が鼻をくすぐって。「勉強」の時間になると誰もいない部屋に引きこもって終わるまで寝ていた。

 その宗教が一概に悪いとは言わない。何かを信仰するのは自由だし、入信することで幸せに暮らしている人もいるだろう。ただ私には合わなかった、それだけだ。

 教会関連のことを調べていると私は婚前交渉をしたのでサタンに堕落するそうだ。地獄に落ちるはずなのに、なぜか嬉しかった。この世でもう既に地獄を味わったのであの世には天国も地獄もないと思う。サタンだろうがなんだろうが安心して逝く。

 

 「離婚」という言葉と意味を覚えてすぐ、信者でなくなった母に繰り返し「離婚して、離婚して」とだだをこねていた。

 母が仕事でいない日はちょっとしたことで父に怒鳴られ兄妹並べて正座をさせられる。「豆1粒でも分け合いなさい」などと説教が始まり、次第に「だからあの女の子どもは」と母の悪口も止まらなくなる。自分の子どもでもあるだろとその言葉に違和感を感じるがぐっと黙り、いつも締めには「手を出せ」と言われて棒で叩かれる。常にその「お仕置き棒」を持ち歩いて振り回し、「お仕置きするぞ」と脅された。物凄く痛かった。足の指を叩かれることもあった。私の頭の上で大きく手を振りかざし叩こうとする身振りで心臓がぎゅっと縮んだ。逃げたらおしりを蹴飛ばされた。

 「豆1粒でも」とは言うが自分ばかり旅行に行って美味しいものを食べて仲間にちやほやされて、長女ばかり甘やかしてどの口が、と鼻で笑う。反抗できる歳になってこう話したら、案の定顔を真っ赤にしてしこたま怒られた。

 そんな父は母が仕事から帰ってくると人が変わったようにニコニコして寝る前はキスまでしてくる。こんな毎日に慣れてしまっていた私もどこか頭のネジが外れているのかもしれない。

 母に父の暴力を相談したら裏で一悶着あったのか、お仕置き棒の出番はなくなった。しかしお仕置き棒で育てられた兄との喧嘩ではお仕置きゴムチューブなるもので身体中打たれるようになってしまった。なるほど、こういうふうに連鎖するのだなと目の当たりにした。私も妹との喧嘩ではかなり高圧的になり、全て思い通りに支配したくなる衝動に駆られたことがある。父そっくりの顔で、父そっくりに怒って。嫌悪感で吐き気がする。

 父は手を出さなくなったのはいいとして、言葉の暴力が倍増したり、物にあたって床に大きな傷をつけたりするようになった。ある日、私がアメーバピグに熱中していたら突然パソコンを奪って顔に思い切り投げつけられたことがあった。私の代わりに「ジジジ…」と泣き、ぐちゃぐちゃに壊れて青くなったパソコンをながめ、自分の反射神経を褒め讃えた。

 

 大阪でも私の居場所はなくなってしまった。父の命令で実家に帰らせられたからだ。