「話は以上です。」
手の甲は黒ずんで爪は黄ばみ、浮腫んだ指に似合わない無愛想な輝きを放つ愛の無機物を、男はひらひらとかざして事務室へ去った。
やがて社員や同じアルバイトの人々がそれぞれの仕事場へぞろぞろと向かうのに、私も鼻をズッと啜りながら着いて行った。
「また小さすぎたかな。」
首から提げた名札を吊るすふにゃりとした青紐が歩く度にみっともなくクルクルと回る。切れかけのインクを押し絞って、やっと書いた自分の名前をすすけたソフトケース越しにざらりとなぞる。 文字を書く機会が減ったからか全体的にどこかぎこちなく、特に画数の多い下の名前なんかはバランスが酷い。でかでかと書かれた他人の名前を見かけると、まるでそれが自信の表れかのように感じて、少し気が落ちた。
時給1000円、9時から18時までフルタイムで8000円。職場までは電車とバス40分。ここでの勤務は今日でもう1週間になる。倉庫内でのいわゆる肉体労働だが、やることは単純なので重いものを運ぶことにはかなり慣れてきた。
とはいえ、季節は12月末。小さく不安定な脚立に登りテレビ台を運ぼうが、せっせとコンテナに荷を積もうが、端から端まで1キロちかくある倉庫を何往復しようが、汗ひとつかかないほどここは寒い。耳から足指まで、なんなら脊椎に届きそうなくらいカチコチに冷えている。
「大阪の人は暖かい」とテレビでよく聞くが、少なくとも今の凍てついた私の体を溶かしてくれるような温もりは未だ感じられないでいる。
地元の高校をわずか半年ばかりで辞め、はるばる熊本の田舎からここ大阪の寝屋川市へ来たのは10月のことだ。住居は父のツテ。駅から幾多の居酒屋をぬって徒歩5分、マンション最上階角部屋、家賃10万円4LDKの広すぎる部屋。
すぐ近くにはドラッグストア、ドンキ、コンビニ。少し足を伸ばせばショッピングモール。地元と違ってとても便利な街だ。
最初キャリーケースを転がしてはるばるやって来たとき、自転車の多さとそのスピードにかなりたじろいだ。
朝の走行車のクラクションとゴミの匂い、昼の喧騒と愉快なおばちゃんたち、夜の賑やかさとダストからの煙、人々の生活がぎゅうぎゅうにあったお陰か、知り合いが1人といない中でも不思議と寂しさはなかった。
父は何やらあちこちへと出張しているため、実質1人暮らしとなる。私はまさにこの快活たる街を見下ろす孤高の城をちゃっかり築き上げたのだ。
学校を辞めた理由はいろいろある。当時親や先生を納得させるために「自分探し」だの「本当にやりたいことを見つけたい」だの、よくある自己啓発気味なこじつけで「そうだ、そうかもな」と自分さえをも騙し込んで時に涙し時に怒り必死に説得した。
そんなぼんやりとしたことしか思いつかないくらい、本当にいろいろあった。そのいろいろが私の行く手を阻むかのように着々と重なったのだ。
いろいろの1つ目。人間不信。
小学生の時にいじめられた。流行を好み、自分のことを「うち」と呼び、比較的キャピキャピしていた私はカーストの高いグループに属していた。ただ、その中ではローテーションに獲物を定めらる。自然と私の順番が来た、ただそれだけのことだった。全てはリーダーの気分次第だった。
しかし、私も獲物が決まる度に無視だの悪口だののいじめに加担していたので今更何も言えないのだけれど、悔しい、悲しい、辛いという気持ちが渦巻いて人と関わることが上手く出来なくなってしまった。人を好きになる感情を見失った。と同時に、初めてこのとき弱い者の気持ちや、自分が犯した過ちを理解した。早くグループから離れれば良かったのに、謎の反省の手紙をおくったり、小学生のくせ忖度の長電話をかけまくったり執着して、本当に自分は馬鹿だった。1人になるのが怖かったのだろう。
すっかり人間不信に陥った私は時に嫉妬心に燃え、時に独占欲に溺れ、あれよこれよと性格が拗れていった。学年が上がるにつれてとうとう煌びやかなお群れとはすっかり疎遠になり、友達は年々と減っていった。
「私とお友達になってください。」
「何言ってるの、私たちもう友達じゃん!」
という漫画のようなくだらないやり取りに本気で焦がれていたくらい、人間関係に難しさを感じていた。
人の目を見て話すことができなくて、姉にそうしろと教わったので、寄り目になるくらい相手の鼻先の黒いツブツブをひとつ、ふたつと数えた。幾らか気が楽になる代わりに、相手の話が頭に入らず苦労した。声が音としてとしか耳に届かない、言葉としての意味を理解できない。
今やコミュニティがバイト先しかなくなってしまったが、そこでも友達の作り方なんてものをずっと考えている。
心の開き方がわからない、かつ人が信じられない。そんな私に心を開いてくれる人が一体どこにいるのだうか。
学校が全ての世界で毎日、ある時は宇宙のように途方もなく、ある時は電話ボックスのように狭苦しくいあの感覚、そんな異次元を交互にして、ただ数少ない友達を大切にすれば良いのだとわかっていた。でも自分しか見えない。
結局私は変われなかった。
2つ目。中3の初めに過敏性腸症候群を患った。
きっかけは新学年テストの日だった。
空前のイメチェンブームに燃えていた私は春休みの間からヨーグルト、レタス、豆腐しか食べないそれはそれはストイックな生活を送っていた。
さて、効果は抜群でみるみる痩せて学校イチ可愛くなり…とはいかず特に何も変化のないまま、むしろやつれ顔のフラフラした体でその日の朝を迎えた。
とにかく自分の足の太さだとか、顔や髪の具合だとかに酷く敏感になり、いつも以上に緊張感と劣等感に苛まれていた。
朝9時頃、女教師の合図で最初の科目がスタートした。まだ少し肌寒い朝、ピンと糸が張るように静まり返った教室で見慣れた顔半分、よく知らない顔半分の塊が一斉にペンを取り用紙をめくる。私もボーッとした頭を何とか切り替え、それに続く。
やばい。そう感じたのは試験開始から10分程度経った頃だった。腹からだんだん下へ、はち切れそうな圧迫感が下へ下へ順々と伝う。
履き慣れた上履きがだんだんもどかしくなって腰を引く。硬い椅子、硬い机、硬い鉛筆、硬い体が不思議とフワフワ宙に浮く。落ち着こうと1度頭を上げ、女教師と目が合う。訝しげな顔を向けられる。そんなふうに見ないでくれ、カンニングじゃないんだと心で叫ぶが手を挙げて助けを求める勇気もなく、また俯く。
その最中にも次々に私は苦しいもので体中いっぱいになり、先程までの冷えを返して欲しいくらい全身が熱く火照り、これから起こるであろうことをぐるぐる想像するとひとつ、ふたつ、ツーっと汗が流れる。そして遂に我慢の限界が来てしまった。
張りつめた糸をプツリと切るように、とにかく無様な音が響いた。恥ずかしさのあまり頭が真っ白になった。もう何も考えられなくて周りの反応を伺う余裕は無かったが、今思えばそんなことをいちいち気にする人はほぼいなかっただろう。けれど、その時の私は好きな人もいて、見栄張りで、自意識過剰で、とにかく周りが気になる思春期乙女街道をひた走っていたのだ。
もちろん、こんな醜い音はその街道設計に予定していない。自分への励ましや慰めなど頭に浮かぶものか。穴があったら入りたい、こんな言葉を作った人を憎たらしく思えた。穴なんてそうそう都合良く無いからだ。
面白いことに1度鳴り出すともう止まらなかった。意に反して連続爆弾テロの単独犯がここに誕生したのだ。原因は多分、朝食べた大量のヨーグルトだろうと気づき、テストの結果もまあ散々で、これを機に偏食は辞めた。
だが決してこれで終わりではなかった。ここからが果てしなく長い地獄の幕開けだった。